京都「島原」
京都島原 島原「角屋玄関」 角屋中戸口
島原
 豊臣秀吉が京都を再興するにあたり、天正十七年(1589)二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これがのちの慶長七年(1602)六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えました。その後、京の町の発展に伴い、寛永十八年(1641)市街地の西にあたる当時の「朱雀野」に移されました。正式名称は「西新屋敷」と呼んだが、その急な移転騒動で、住人の狼狽がひどく、あたかも九州「島原の乱」の直後と様子も似ていた事もあり、それになぞらえて島原と称されるようになりました。 
太夫
 島原の遊女の最高位である太夫の名称は、慶長年間(1596〜1615)四条河原町で六条三筋町の妓女が女歌舞伎を催したとき、すぐれた妓女を「太夫」と呼んだことから始まるとされています。
かしこの式
 かしこの式とは、宴会を催す時に置屋から揚屋へ太夫を呼び、お客様に太夫を紹介する時に行う式の事を言います。
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島原大門 島原「角屋」 島原「輪違屋」 輪違屋玄関
島原神社 島原のお茶屋 島原西門の碑
 島原は、我国最初の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)で、江戸時代の島原は単に遊宴を事とするにとどまらず、和歌俳諧等の文芸活動が盛んで、ことに江戸時代中期は島原俳壇が形成されるほどの活況を呈していました。
 島原には、揚屋(あげや)と置屋(おきや)があります。花街には歌舞練場が在りますが、島原の歌舞練場は近年取壊せれて現在はありません。
揚屋
揚屋「角屋」は太夫・芸妓などを一切かかえず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場所でした。現在の料亭にあたる店です。
置屋
置屋「輪違屋」は太夫・芸妓を派遣する店です。
 角屋と輪違屋、それに島原入り口の「大門」(慶応3年「1867年」再建)のわずか3箇所が往時の名残をとどめるのみとなっています。

角屋と輪違屋
 角屋は、島原開設当初から連綿と建築・家督を維持しつづけ、江戸時代の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952年)に国の重要文化財に指定されました。
 揚屋とは、江戸時代の書物の中で、客を「饗すを業とする也」と定義されているところによると、現在の料理屋・料亭にあたるものと考えられます。饗宴の為の施設と言うことから、大座敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、庫裏と同規模の台所を備えていることを重要な特徴としています。
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角屋玄関「日常図」 角屋 角屋台所 松虎図「岸駒筆」
主庭内茶室への渡り廊下 主庭 主庭内茶室 柘榴鸚鵡図「岸良筆」


新撰組を中心とした幕末の歴史です。
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島原への交通
輪違屋 とんかつ一番 梅小路公園 角屋 大門 西本願寺

角屋もてなしの文化美術館
TEL 075-351-0024

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